はじめに
学校では、4月から新しい学年が始まりました。
今年から1年生になった子どもたちも、さぞ新しい学校生活に希望と喜びを感じていることでしょう。中には新しいランドセルを何度も背負って、入学式を心待ちにした子どももいたことでしょう。
4月は、冬から春へのはっきりとした移行であり、新しい出発の月となり、希望と喜びに満ちた月であります。
ただ、幼稚園から学校へと変わるということは、ただ単に場所が変わるということだけではありません。そこには、同じ教育機関でありながら、そのめざしているものや方法にいくらか違いがあることを理解しておく必要がありそうです。なぜなら、その違い故に子どもの中には、とまどいを感じてしまう子どもも少なからずいるからです。
もちろんこれは一過性のことといえばその通りで、そのことをいつまでも引きずって、後の学校生活に影響が出るということはほとんどありません。
とはいえ、幼稚園教育と学校教育の違いといったものをある程度理解しておくことは、保護者の皆さんにとっても心構えとして準備しやすく、また、今後の教育を考える上で必要なことだと考えております。
1. 幼稚園教育の特徴
幼稚園教育の特徴は、何といっても小さな子どもが人生で始めて体験する大きな集団にあります。
今までは、せいぜい公園や近くの子どもと遊ぶ少人数の集団でした。そこでは多分に偶然の出会いでの仲間であり、もしママ友の仲間であったとしても、それは強制的ではなく、出入り自由の仲間でした。
それが、幼稚園は始めて親から離れ、自分で大きな集団の中に入っていかなければなりません。
しかも最初は、なじみのない信頼関係もない先生と称する人の指示に従わなければなりません。
3歳あるいは4歳の子どもにとっては、大きな試練です。
ですから、幼稚園教育の第一の目的は、この集団生活に対する「慣れ」にあります。
特に3歳児は、まだ自己中心性の世界にいますから、集団といっても遊びの協同性はほとんど見られません。また、個人差が大きく、あわせて生まれ月による差も見られます。
そのような状況の中で、幼稚園教育は集団における社会性の育成をめざします。
3歳児ならば、自分とは違う子どもがいることをやがて理解するようになります。そして、4歳になると、他の人の気持ちを推し量ることが少しずつできるようになります。このあたりから、次第に遊びも協同的になっていきます。
さらに5歳になると、先の見通しを持つことができるようになり、遊びの協同性もより一層強くなります。
一言で社会性といいますが、この中には色々な要素が含まれています。
例えば、集団における規律です。友だちのことを考えながら、互いにルールを守って遊ぶことを躾られます。特に日本の教育は、わがままを抑え、協調的に物事を運ぶことを教えられます。
道具の貸し借り、場所の譲り合い、役割の平均化などが具体的には強調されます。
これはまた、家庭の方でも同じように望む傾向があり、幼稚園生活での子どもに対する関心事の第一は、仲間はずれにしたり、されたり、あるいはお友達に意地悪をしたり、いじめられたりしないかということです。つまり集団の中にうまく入っていっているかということに重きを置かれているわけです。
また、使った道具を片づける、あるいは、食事のマナーといったことも集団の中で教えられます。
さらに、このようなことに重きを置かれるため、子ども自身の変化や成長も集団の中で、あるいは集団や個々人に対してその子どもがどう関わったが中心になっているようなことがあります。
たとえば、おしゃべりをしないで先生の話が聞けるようになった、とか、お友達に対して優しくしてあげたとか、先生のお手伝いをよくしたとか、主に集団や個人的な関わりの中で、その子どもがどのような役割を果たしたかが記録されることが多いようです。実際に、個人面談でもそのような内容で終始することが多いようです。
また、幼稚園によっては、かなり難しいことを教え込む幼稚園もあります。
平仮名はもちろんのこと漢字を教えたり、英語や音楽といったことをかなり難しいことまで教える幼稚園もあります。これらの幼稚園は、この様なことを特色として出すことによって、多分に幼稚園経営のためといった意味合いが強いのですが、一方でそれを支持する家庭もかなりあるので、それで幼稚園経営は成り立っているのでしょう。
しかし、いずれにしても幼稚園教育は、その育ちは園児である子どもに任せられています。
つまり自然な成長を見取るということでは、どの幼稚園も本質的に持っています。
これは別の言い方をしますと、協同的な遊びや活動を通して、様々な試行錯誤を繰り返し、友だちの様々な面を知り、色々な知識や技術を身につけます。
ただ、残念なことに多くの幼稚園は、これらの集団的な遊びを通して、子どもの内面に何が育っているのか、といったところまで十分に迫っていけないのが実情です。これは、一つには日本独特の集団主義によるものであり、もう一つは、教師一人に対しての園児の人数が多いことによります。
また、教師の養成機関において、幼児の発達心理学は学習するものの、子どもの発達を見取るということを十分に学習しないためと思われます。したがって知識として持っているだけで、実際に子どもの行動が何を意味したり、あるいは子どもの内面の何が変化しているのかといったところまで見取れていないのではないかと思われます。
このように、幼稚園は子どもが最初に出会う集団としての働きをもち、その中で大きくいえば社会性、すなわちルールやマナー、あるいは役割といったことを身につけ、子ども一人ひとりについていえば、子ども同士の関わりで、自己の確立、すなわち自分と他人との区別や協調の技術などを学んでいくのです。
2. 学校教育の特徴
さて、このように始めての集団の中で、ルールやマナーあるいは役割を身につけた子どもが、やがて学校にはいります。
学校も幼稚園と同じ集団です。ある意味では、幼稚園の延長上にあると言っていいでしょう。
ルールはより一層複雑でかつ厳しくなる面もあります。全体の人数が多くなり、年齢も高くなるので、そのようなことは当然であるとも言えます。
したがって、その点では子どもの側から見れば大したことではないのかも知れません。
幼稚園と大きく違うのは、学習のスタイルです。
幼稚園では、発表会(幼稚園は実にこれが多い)や運動会の前には、練習をしますが、ほとんどは体を使ったものが多いのです。つまり子どもにしてみれば、練習をさせられているというよりも、遊びの延長上のことが多いようです。練習の結果を保護者に見て貰うという喜びもあります。もっとも、子どもの中にはこれを極端に嫌がる子どももいるようですが、それでも大多数の子どもは、それほど苦痛に感じていないようです。
しかし、学校は勉強と称する学習の時間が大半です。
幼稚園は遊びが中心であったのに対して、学校は勉強が中心です。これが学校の持つ一番大きな幼稚園との違いです。
子どもは最初のうちは、このスタイルが珍しく、また、少し背伸びをしたような気もちになるのでしょうか、面白がっていますが、そのうち飽きてきて次第に苦痛を感じる子どもが出始めます。
何故子どもはこのスタイルに飽きてくるのか。
それは、子どもの能動的な学習スタイルではなく、受動的な学習スタイルだからです。つまり、子どもの中に学習の必然性が感じられないまま、教師が用意したプログラムに乗っかる形で学習を進めなければならないところに、とまどいを感じてしまうのです。
幼稚園の活動は、少なくとも子どもにとっては遊びが中心でした。遊びは、子どもが主体です。
子ども自身が何をやるのかを決め、年長になれば、おおよその最終的なイメージまでできて協同的に遊びを続けられます。そこには、子どもの小さな発意があり、何をどのように進めるかという見通しを持った構想があり、それを遂行し、その間にも小さな修正を繰り返し、さいごにゴールにたどり着きます。その後も更に、その結果がどうであるかを吟味することもあり、それらを壊したり、修正して、また、次の活動に移ります。つまり評価し、新たな発意へと向かうのです。
この繰り返しが、多くの幼稚園児の自由な活動の本質です。そして、どのような遊びにも、この発意から遂行、評価に至る学びが含まれています。
しかし、学校は子ども自身の発意ではなく、系統性という名のもとで作られたプログラムの学習です。そこには子どもの発意も構想もないのです。子どもにとってみれば、全く自分とはかけ離れた体型の洋服に袖を通すような気もちがするのかも知れません。
さらに、幼稚園では絶対になかったことに、学習目標に対して到達したかどうかの成績がつくということです。
幼稚園では、体が大きいとか力が強いとか足が速いとか、違いを感じることはあっても、それは、その子の特徴として捉えられていました。少なくとも幼稚園の教育システムの中にそれらのことが位置づけられることはなかったはずです。
それが小学校では、到達したかどうかが位置づけられ、そのことによってある種の序列化が生じます。つまり、幼稚園では違いは違いとして受け入れられ、同じ平板な上に立っていたものが、小学校ではその違いが縦につながります。つまり新たな競争社会に子どもは身を投じることになるのです。
したがって第2のとまどいは、この降って湧いたような競争にあります。
少なくとも、多くの子どもたちは、幼稚園の延長線に学校があると考えていたでしょう。
保護者の方が、学校に入る前にこの様なことをいわなければ、子どもは恐らくそのように考えていたでしょう。また、たとえ子どもが理解できるように話したとしても、どれだけの子どもが本当に納得したでしょうか。たとえば「学校に行ったら、幼稚園と違って先生のいうことをちゃんと聞いて勉強をしなければいけない」と言ったとしても、それを本当に理解し、納得してそれに向かっていけるのはかなり難しいことだと思います。
それでも子どもたちの大部分は、そのことを押し隠し、学校という集団に適応しようと努力します。そして、多くの子どもは、勉強に対して苦痛を感じながらも、何とか努力をして適応していきます。この適応していく課程には、保護者の並々ならぬ努力もあるのですが・・・。
さて、学校教育の中核をなすものは何か、といったことについて触れたいと思います。
今、図らずも「努力して」と書きましたが、学校教育の中核をなすものは、この努力を中心とする「勤勉性」の育成にあります。
学校教育の中心は一見すると、知識を増やし技術の向上を図ることにあるように思われます。
しかし、皆さんもご存じのように、学校で得た知識の大部分は大きくなれば忘れ去られ、身につけたと思われる技術もすっかり落ちてしまいます。
つまり、学校教育で身につけたものは、大人になれば自然と剥がれ落ち、時には痕跡も残らないような有様です。
それでも、勉強を続けるのは何故でしょうか。
それは先程述べた「勤勉性」の育成にあります。「勤勉性」とは、努力をするということの他に、ルールを守るとかお掃除を始め整理整頓をするとかといったことも含まれます。
これをお読みの皆さんも学生時代を思いだしていただきたいのです。
どの学校にも「廊下を走らないようにしましょう」とか「教室をきれいにしましょう」といった張り紙があったのではないでしょうか。これらはみんな「勤勉性」を育成するためだったのです。
さらに、努力をするということも、自分の中からでてきた意欲とは別に、他から、この場合は教師ですが、命ぜられた課題に対しても真摯に取り組むことを求められます。つまり受動的勤勉性が求められているのです。
幼稚園の時代は、同じように「頑張って」遊んだとしても、それは自分自身の目標達成のためであり、仲間との協同性のためでもありました。つまり努力をするということは、他から強要されたものではなく、自発的、能動的にそこに向かっていったのです。
おわりに
幼稚園教育と学校教育の違いをあえてあげるとすれば、そして子どもがとまどっている本質はこの様なことになると思います。
読みようによっては、学校教育は大きな弊害を生んでいるようにもとれるかも知れませんが、必ずしもそうではないのです。何よりも、日本人の持つ「勤勉性」は世界からも大きな評価を得ています。これは学校教育だけではなく、長い日本の社会が生み出した一つの財産であり、特徴でもあるのかも知れません。そして、このたぐいまれな「勤勉性」によって、戦後の復興から立ち上がり、世界に肩を並べるような経済大国になったことを考えると、あながち学校教育を否定的に捉えることはできません。
ただ、一方で世界中の国々と関わりを持ち、情報が共有化され、世界の国々と協働的に色々なことを取り組む時代にあっては、勤勉性とは別に、各個人の「主体性」や「思考力」「決断力」あるいは「表現力」といったものが求められているのも事実です。
したがって、今後は能動的勤勉性と受動的勤勉性の両方が育つような新しい学校教育のプログラムが必要とされるでしょう。それらの試みはすでに始まっていますが、その道はなかなか厳しいようです。
そして、今の学校教育に早急に求められるのは、大きな変革だけではなく、学校の中にも、子どもの話を聞いてくれるそんな場が必要とされているのだと思います。このことはそれほど大きな変革を試みなくても、学校単位で小さな努力や工夫でやれる余地はいくらでもあるように思います。
したがって家庭教育においても、今の学校教育の不備を補填するという意味からも、子どもの居場所を作るということ、すなわち自分を表現する場が家庭の中にあるということをよく考えてみる必要があると思います。
さらに、学校教育が結果を取り上げることに傾きがちなのに対して、家庭では、その子どもの良さやプロセスにおける態度や思考過程といったことに、子どもと一緒に目を向けることが大切です。それによって子どもは自分に自信を持ち、努力を惜しまない、本当の「勤勉性」を身につけた大人へと成長するものと思われます。
元カリタス小学校 教頭
小野 一 |